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アナザーゼロ 3

牙琉響也の朝は、意外に早い。

子供の頃から叩き込まれた規則正しい生活は、激務によって不規則になりがちな検事とミュージシャンという、二足のわらじを履いていても崩れることはなかった。
こればかりは厳しかった両親に対して感謝だな、とようやく思えるようになったほどには、響也は大人になっていた。
絵に描いたような、完全無欠の優等生だった兄とは対照的に、自由奔放に育ってきたと思われがちな響也であったが、子供の頃は両親によって完璧に管理され尽くした生活を送っていた。
それに反発して音楽にのめり込んでいったのは、小学校高学年に差し掛かった頃だったか。
それまで音楽といえばクラシックしか知らなかった響也にとって、ロックとの出会いは雁字搦めに縛られた自分を解放してくれる、唯一の救いとなっていた。

音楽の道を選ぶと決めたとき、両親が露骨に嫌な顔をしたことは、今でも鮮やかに思い出すことができる。
ただでさえ、ロックなどという、両親にとってはわけのわからない音楽に傾倒している響也を、苦々しい思いで見つめていたことは知っていた。
それを生業とすることに、彼らがどれだけ拒否反応を見せたことか。自分たちが理解できないことを馬鹿にするきらいのある両親が、子供っぽい理屈で響也を説得しようとしていた様を思い返すと、今でも馬鹿らしくて笑みが零れてしまうほどだ。
しかし何かに執着することを知らなかった息子が、自分たちの言葉に耳を傾けようとしないのにようやく気付いたのか、十五になる頃には条件付で音楽を続けることを認めた。

曰く、法曹界にも籍を置くこと。
それが適わないならば、音楽を続けることは許さない。

あまりにわかりやすい条件に、響也は胸の中で冷笑していた。結局、この人たちの中には、ある一定の層に対しての世間体だけが大事なのだと、両親に見切りをつけたのもこの頃だった。
法曹にも興味はあったし、両立させる自信はあった。
響也は何でもないような顔をして、検事となり、同時にミュージシャンにもなったのだ。

『一見すごく優しそうに見えるのに、あなたって意外と冷たいし負けず嫌いなのよね』とは当時付き合っていた恋人の弁だ。
言い得て妙だと、内心感心しながらもその言葉を肯定も否定もせずに、口唇を歪ませたことだけは覚えている。
彼女は呆れたような顔をして、それからすぐに響也の元を去って行った。
今朝はやけに昔のことを思い出すな、と寝乱れた髪をかき上げながら、響也は苦笑する。

「今日は検事局か……」

審理中の事件は抱えていないものの、仕事がないというわけではない。ガリューウエーブでの活動をとりあえず停止している今、検事としての仕事を優先させてもいいかなと思うほどには、響也は充実した日々を送っていた。
それにはあの弁護士――王泥喜法介の存在が大きいのだが、響也はあえて気付かない振りをしていた。

「人生で負け戦はしたくないんだよね」

仕事で負けても、そんなにショックは受けないんだけどと、誰に聞かせるわけでもない響也の呟きは、高い天井へと吸い込まれ、消えていく。
んんん、とひとつ大きく伸びをして、響也はベッドから起き上がると、足取りも軽く支度を始めた。





「あっ、牙琉検事!」

顔見知りの職員が、登庁した響也に駆け寄ってくる。
こういうとき、大抵の場合は厄介ごとを持ち込まれる可能性が高い。
今もまさに、それだった。

「ああ、おはよう。どうしたんだい?」
「あっ、おはようございます。あのですね、亜内検事が現在担当中の事件の概要はご存知ですか?」
「亜内検事が担当してるっていうと、えーと……ああ、確か薬絡みの件だっけ?」

本当はすぐに思い当たる節はあったものの、考える振りをする。そうすることで自分に対する評価を『優秀だけど、人間らしい』といった風に操作していた。
響也は、必要以上に優秀に見せる必要はない、と常々感じている。それは仕事に対して、全力で取り組まないということではなく、身の丈以上に自分を演出したところで、手に負えなくなった場合に苦しむのは自分だから、と考えているからであった。

「はい。その件で少々ご相談が……」
「いいよ。今ヒマだしね」

冗談めかしてウインクを飛ばすと、職員は頬をわずかに赤く染め、絶句する。
響也はまたやってしまったと内省しながら、ひらひらと目の前で手を振り、覚醒を促した。

「それで? ぼくは何をしたらいいのかな?」
「はっ、はい。端的に申し上げますと、事件に関係している薬の入手ルートを知りたいんですが……」
「そんなの、ぼくだって知りたいよ?」
「……はぁ、そうですよね」

そう言ってがっくりと肩を落とした彼に、響也は柔らかな笑みを向ける。

「警察が調べているんだろう? ならばぼくが出る幕はないんじゃないのかな」
「そ、それが」

職員の弁はこうだった。
新種の薬―覚醒剤の亜流ではあるが――であるために、入手ルートから仕入先まで、まったくわからないらしい。
若者の間で急速に広まっていった薬の名は、『ゼロ』。
名付け親が意図したかどうかまでは定かでないが、『ゼロ』とは実に洒落のきいた、そして皮肉な名前をつけたもんだと、響也は哂った。

「警察も全力を挙げて捜査しているのですが……」
「手がかりが見つからない?」
「はい、その通りです」
「でもねぇ……。さっきも言ったけど、警察にわからないことがぼくにわかるとも思えないよ?」

推理ならともかく、薬の入手経路など、地道な捜査以外に解明する術はない。それをわかっているはずなのに、この職員は自分に何をさせたいのだろう?
響也は心底、不思議に思った。

「それが……。亜内検事が担当されている直接の事件は、『ゼロ』の使用で捕まった少年に対する審理なんです」
「それなら使ったかどうかだけ、判ればいいんじゃないの?」
「そういうわけにもいかないことは、牙琉検事が一番よくご存知だと思うんですが……」
「まぁ、ね」

ドラッグは人を堕落させる。
蔓延する前に流通を食い止めるのが、ベストではある。
しかしその難しさは、並大抵のことではない。

「本来なら亜内検事に持って行くべきなんでしょうが……亜内検事は余裕がなさそうなので」
「ああ、うん……」

申し訳なさそうな表情で響也を見つめたこの職員は、亜内という検事の実力をよく把握しているのだろう。
亜内が無能だと言っているわけではなく、ただ彼はひたすらに凡庸なのだ。彼の下で働いていると、気を遣うだろうなということは察せられた。

「警察が掴めない情報をぼくが掴めるとは思えないけど、片手間でよければ頭に留めとくよ」
「はいっ!ありがとうございます!」

ほっとしたような表情を浮かべて、響也にぺこりと頭を下げると、足取りも軽く職員は立ち去っていく。

「ぼくも大概、人が好いよね」

本当に人が好い人間は、そういうことを口にしないというのは承知の上だ。

「それにしても、ドラッグねぇ……。胸糞悪い」

響也はドラッグが嫌いだった。
薬のもたらす一時的な幸福が、どれだけ虚しいか。
アメリカで暮らしたことがあり、芸能界というアンダーグラウンドな世界と、常に隣り合わせのような世界に身を置いている響也にとって、ドラッグは対岸の火事ではなかった。知人に、薬で人生を棒に振った人間は何人もいる。
そして長年仲間としてやってきた大庵もまた、形は違えども薬によって身を滅ぼした。

「ちょっと真面目にやってみようか……」

響也は呟くと、自室である上級検事執務室へと、足を向けた。何をするにも、まずは情報収集から、だ。

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