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suit

 今にも泣き出しそうなどんよりとした空模様も、やたらに混雑している裁判所内も、自分の顔と格好を見て驚いたように足を止める人間も、何もかもが気に食わなくて、響也はちぃっと小さく舌を打った。
 兼業で人気商売をしているがゆえに、人当たりは悪くないと自負している。が、物事には限度がある。
 そして不愉快な出来事が朝から何度も続けば、どんなに心が広い人間だって機嫌を悪くするさと、常に似合わぬ険を含んだ目で、物珍しげな視線を送ってくる周囲の人間を睥睨した。
 気まずそうに目を逸らす人、好奇心をあらわにじっと見つめてくる人、エトセトラ、エトセトラ。
 まったく、ぼくは動物園のパンダじゃない!
 いつもより少し息苦しく感じる首回りに手をやり、そもそものケチのつき始めはアレだ、と響也は大きなため息をついた。



 秘密の――隠しているつもりはないが――恋人である王泥喜とは休みが合わなかったものの、久しぶりに取れたオフの終わり。
 一人で過ごす響也の平穏を切り裂いた、連絡という名の命令を告げる一本の電話が入ったのは、午後十時を少し回った頃だった。
「……はい、牙琉です」
『おお牙琉君。君、明日は公判入ってなかったと思うんだが、違うかね?』
 名乗りもせずに滔々と受話器から流れてくる聞き慣れた上司の声に、どう考えてもいい知らせではなさそうだと、響也は整った眉根を寄せた。
「局長……、藪から棒にいったいどうなさったんです」
『明日、暇かね?』
「暇ではありません」
『公判ないだろう、君』
「公判は確かにありませんが、」
『じゃあ決まりだ』
「は……?」
『明日ね、警察局のお偉いさんが来るんだが』
 そこで言葉を切った上司に嫌な予感を隠さずに、響也は「はあ」と気の抜けた相槌を打った。
『そんな他人事みたいな返事しないでくれたまえ』
「いえ、他人事ですし……」
『君、裁判所を案内してくれるね?』
 嫌です、と答えられたらどんなに気が楽だろうと、響也は内心天を仰いだ。
 しかしそこはしがない役所勤めの身である。音楽でも食べてはいけるものの、検事の職を手放したいとは、天地が引っくり返っても思えない。
「……」
『してくれる、よね?』
 明らかにこれは命令だと、響也は受話器を放り投げたくなる気持ちを抑えて、努めて冷静に口を開いた。
「ぼくでなくても……」
『いやぁ、それがね。あちらさんのご指名なんだ』
「……わかりました」
『おお、受けてくれるか! ありがとう!』
 この狸爺め。
 最初から自分に選択肢などなく、イエスとしか言わせないつもりのくせに、形式だけは疑問形を取るところが嫌らしいと、響也は世界中の罵詈雑言を電話相手にぶつけてやりたい気持ちでいっぱいだった。
「何時にどこに伺えばよろしいですか」
『午後一時に私の部屋まで来てくれたまえ』
「了解しました」
 では、と早く回線を切ってしまいたい響也を、『ちょっと待ちたまえ!』と、上司の野太い声が引きとめた。
「……はい?」
『明日はね、きちんとした格好で来てくれたまえ』
「きちんとした格好、ですか」
『そうだとも。スーツで来たまえ』
「ええっ 」
 寝耳に水の話に、響也は思わず叫んだ。
 十七歳で検事になってからというもの、一度も響也はスーツで仕事に行ったことがない。お堅い職場のわりに服装の自由度は高かったため、それを咎められたこともなかったのだ。
「いつもの格好では駄目なんですか?」
『お偉いさんだからなぁ……。叩かれやすそうな芽は、なるべく摘み取っておいたほうが、後々いいだろう?』
「今さらだと思うんですが……」
『スーツで、来なさい』
 上司の断定口調に、思わずため息が漏れた。
『そこまで嫌がられると面白いから、絶対スーツにしたまえ』
 完全に面白がっている声音に、響也はぐしゃぐしゃと頭を掻き回した。
 自分のため息ひとつで意見を翻してくれるような、可愛げのある上司ではないことはわかっていた。わかってはいたが、悪乗りしすぎだろうと響也は思う。
「スーツなんか持ってませんよ」
『嘘はよくないよ、牙琉検事』
「……」
『じゃあ明日。頼んだよ』
 上機嫌な声の余韻を残してぷつりと回線が切れた受話器を、響也は黙って見下ろした。
 どうせいつもの思いつきでスーツにしろと言っただけだろうに、響也が嫌がるがためにスーツを着て来いと言ったとしか思えない。
 そこまでスーツが嫌だというわけではないものの、強要されるとあえて拒否したくなるのは、自分だけではないだろう。
 ただでさえ気のすすまない用事を押し付けられ、その上堅苦しい格好で出勤しなければならない。見慣れぬ自分の姿が注目を集めるだろうことは、想像に難くない。
 最悪な休みの終わりだ、と響也が思ったのは日付の変わる二時間前。災厄がその後も続くことを、このときの響也は知らなかった。



「うわ、牙琉検事。どうしたんですか、その格好」
 気乗りのしないスーツを着込んで登庁した響也を出迎えたのは、警備員の無遠慮な一言だった。冗談めかした口調であったため、普段ならばさらりと流せたはずの一言は、予想外に響也の心を抉った。
「……そんなに似合ってないかな、これ」
「いえ……お似合いです」
 お似合いですが、ホストみたいですね。
 警備員の言葉に、響也は撃沈した。
 シャツを着込みネクタイを締め、ジャケットを羽織った時点でなんとなくわかっていた。
 響也がスーツを厭うのは、自分の容姿とスーツによって、むしろ怪しげな雰囲気を醸し出すことを知っていたためだった。
 鏡に映る自分の姿はどう贔屓目に見ても、サラリーマンとはほど遠い。夜の商売の方ですね、と言われても反論できなかった。
 それなら普段はどうなのか、と聞かれれば言葉は詰まるが、ロッカーですからと答えれば済むことなので問題ないと思うところが、響也が響也である所以だろう。
「局長命令でね……」
「そ、そうですか……」
 疲れたようなため息を吐いた響也に、警備員は同情的ながらも、見慣れぬ検事の姿に好奇心いっぱいの目を向けた。
 自分の部屋に向かうまでの間も、知り合いに会えばからかわれ、見知らぬ人からは遠巻きに見つめられて指を差されと、まったく散々であった。
 そんなにぼくがスーツ着てるとおかしいかい?
 局内便を持ってきた女性に聞いてみたところ、仮装大賞を見ているみたいで面白いです、と微笑みながら言われた。
「仮装、大賞……」
「わ、悪い意味じゃありませんよ! 見慣れないだけだと思いますから!」
 とっても素敵です、派手ですけど。
 フォローのつもりで入れたのだろう一言が、響也の心のクレバスを広げてくれた。
 そんな攻防を繰り広げているうちに、牙琉検事が珍しい格好をしている、という噂が検事局を駆け巡るのに、そう時間はかからなかったらしい。
 ただでさえ午後から時間を拘束されるというのに、始業してからこっち、部屋には来客が途絶えることはなかった。
 どれもこれも取ってつけたような、どうでもいい用事ばかりで、明らかに響也の姿を見てやろうというのが目的だとわかる。
「ああ! もう! 本当に重要な客以外、今日は通さないでくれよ!」
 仕事も満足にできやしない!
 業を煮やした響也がたまりかねて叫ぶまで、そう時間はかからなかった。
「お気持ちはわかりますが……」
 アシスタントの女性が苦笑いを浮かべて、部屋の外を指差しながら、今日は仕事になりそうもありませんよ、とありがたくない指摘を冷静にした。
 ドアから覗く目、目、目。
 どれもこれも、珍獣を見るような目で部屋の中を探っている。
「みんな……暇なの?」
 ぼくの仕事を分けてやりたい、と世界を呪うような声で呟くと、響也は頭を抱えながらも、そんなものに気を取られるようではスター失格とばかりに、仕事に無理矢理集中することにした。
 その後も訪れる野次馬の数が減ることはなかったのだが、さすがに天才と呼ばれる才能ゆえか、集中力を持ってして、響也はとりあえずの平穏を取り戻すことに成功した。……時間を忘れてしまうほどに。
「牙琉検事……」
「何」
 おずおずと声をかけてきた部下の女性に、そっけなく返事をする。いつもならば胡散臭いまでに人当たりのいい笑顔を浮かべているのに、今日は顔の筋肉がぴくりとも動かない。
 面食らった顔をしながら、部下は一言こう言った。
「あの……お時間、大丈夫なんですか」
「え?」
 ひょいと時計に目をやれば、針はもうすぐ午後一時を指そうとしているところだった。
「うっわ、まずい」
 ちょっと行って来るから、あとは頼んだよ。
 響也が慌ててジャケットを手に立ち上がった、その瞬間。
 ガチャン、と何かが割れる音がした。
 慌てて振り返ると、お気に入りのマグカップだったものの残骸が、床に散らばっているのが目に入った。
「……」
「あら……」
 散らばった破片は元の姿を想像することすら難しいほど、綺麗に砕けている。
「ここは私が片付けておきますから、早く局長室に行ってください検事!」
「あーもう、今日はなんて日だ……」
 部屋から追い出され、響也は自分の不幸を嘆くように天を仰いだ。
 それから全速力で局長室に駆け込んだものの、既に『警察局のお偉いさん』は茶を飲んで待っていた。完全に遅刻である。
「遅かったじゃないか。心配してたんだよ、牙琉君」
 上司は笑みを浮かべながらも怒気を滲ませるという、難度の高い芸当をさらりとしてみせる。
 あんたのせいで朝から散々な目に遭ってますよ、と言いたいのをぐっとこらえつつ、響也は謝罪してその場をとりあえず収めた。
 そして腹の突き出た偉そうな紳士たちと共に、愛想笑いを携えながら裁判所へと向かったのであった。
 その間、芸能人は時間にルーズだねぇだの、有能な検事は仕事がたくさんあって大変だねぇだの、ちくちくと嫌味を言われ続けながらも、響也は何とか笑みを浮かべていた。……上手く笑えている自信は、まったくなかったが。
 裁判所に着いたら着いたで、検事局から出れば少しはましかと思われた自分の奇異な――あくまでも響也にとって――格好は、裁判所でも相変わらず注目を集めることとなり、居心地の悪い思いをした上司があっさりと、『君、もう帰ってもいいよ』と告げたときには、響也はさすがに唖然とした。
「よろしいんですか」
「よろしいも何もないよ。こんなんじゃ落ち着いて話もできやしない」
 誰のせいだと思ってるんだ!
 響也は心の中で叫びながら、それでは失礼しますとなるべく穏やかに告げ、紳士たちの群れに背を向けたのだった。



 とまぁ、こういう具合に、響也の機嫌は非常によろしくなかった。
 とりあえず人目に触れない場所に行こうと、響也は足早に裁判所内の男子トイレへと歩みを進めた。
 颯爽と歩く響也の姿は、少し派手なところを除けば非常に見栄えがいい。
 かっちりとしたスーツと姿勢の良さが、彼の容姿をさらに引き立てており、珍しさ以上に周囲の視線を引き付けているのだが、幸か不幸かそのことに気付くことはなかった。
 牙琉検事って意外にナルシストじゃないよね、というのは検事局の女子職員の間での評価であることを、響也は知らない。
 まとわりつく視線を振り切るように、バタン、といささか乱暴にトイレのドアを開ける。
「んぎゃっ!」
 鈍い衝撃が腕に伝わり、響也は本日何度目か知れないため息を内心吐いた。
 今度は何なんだ……!
 苛々と視線を下に向けると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「イテテ……」
「……」
 響也にとって最愛の恋人である新人弁護士が、情けなくも尻餅をついて額をさすっていた。
「ちょっとアンタ! どこに目ェつけてるんですか……って、え……?」
 きっ、と眦を吊り上げ睨み上げてきた弁護士は、次の瞬間魂を抜かれたような間抜けな表情を浮かべて響也を凝視した。
「おデコくん……キミ、何してるのこんなとこで」
「……」
「おデコ、くん?」
「…………」
「おーい、王泥喜法介くん?」
 しゃがみ込んでひらひらと目の前で手のひらを振ってみせると、王泥喜は我に返ったようにびくり、と肩を震わせた。
「牙琉、検事……?」
「そうだよ?」
 ごめんね、と謝りながら響也は王泥喜の腕を掴んで立ち上がらせる。
 いつもならば『離してください!』といってバタバタ暴れそうなものなのに、王泥喜は響也を呆然と見つめて、心ここにあらずといった様相を見せていた。
 これ幸いにと、響也は長い腕の中に王泥喜を囲い込んで、検分を始めた。
「ああ、おでこが赤くなっちゃってるじゃないか。他に痛いところとかない?」
「……」
「? どうしたの?」
「え、いや、あの」
「どっかぶつけたりしてない?」
「その、大丈夫、です……」
 王泥喜の煮え切らない態度に響也が顔を覗き込んで尋ねると、彼はうろうろと視線を彷徨わせたあげく、響也の目から逃れるように下を向いてしまった。
 いつだって痛いくらいに真っ直ぐな視線をぶつけてくる王泥喜の常にない姿に、響也は不審の念を抱く。
「どうしたの、おデコくんらしくない」
「……牙琉検事こそ、らしくないです、ね」
「え?」
「スーツ……」
「!」
 ぽつり、と呟いた王泥喜の一言に、響也は朝から続く不愉快な出来事を思い出し、眉を顰めた。
「キミも、なの?」
「は? 何がです?」
「そんなに変? この格好」
「変じゃないです!」
 語気も荒く問いただす響也に、王泥喜は思わずといった風で顔を上げて否定した。
「やっと顔見せてくれたね」
 にやり、と人の悪い笑みを浮かべて響也は王泥喜のぶつけて赤くなった額に口付ける。
「ちょ、アンタ、何するんですかこんなとこで!」
 抱き込まれていることに今さら気付いたのか、ばたばたと暴れ始めた彼の動きを難なく封じ込めながら、響也は右に巻いた王泥喜のつむじに軽いキスを落とした。
「変じゃないなら、どうしてぼくを見てくれないの?」
「……ッ」
 ひゅうっと小さく息を吸い込んで、王泥喜は再び押し黙る。顔は見られないが、彼の耳朶がわずかに赤く染まっているのを見て、響也は内心小首を傾げた。
「おデコくん?」
「……なんですか」
「ぼくはキミのつむじと会話したいわけじゃないんだけど……」
「じゃあ離してください」
「嫌だよ、もったいない」
「公共の場所ですよ、ここ」
「みんな裁判に夢中だよ、きっとね」
 無責任な響也の言葉に、王泥喜は渋々といった感じで顔を上げ、視線を合わせた。
 その顔は赤く、目は潤んでいる。
 ベッドの中でだけ見せてくれる彼の表情に、響也は思わず息を呑んだ。
「反則ですよ……」
「え……?」
「スーツとか、ずるいです」
「え、え?」
 格好いいじゃないですか。
 ぼそりと落とされた王泥喜の台詞に、響也は固まった。
 格好いいってなんだっけ、などという間抜けな問いが頭を駆け巡る。
 そうして響也が呆けているその隙に、王泥喜は響也の腕からするりと抜け出し背を向けると、大きく息を吐いた。
「お、おデコくん?」
「……なんですか」
「今、格好いいって言った?」
「……言ってません」
「言ったよね?」
「言ってませんったら!」
「じゃあなんで首まで真っ赤なの?」
 笑みを含んだ響也の声音に、王泥喜は背を向けたまま『そんなの知りません』と、常になく小さな声で応戦した。
「ねぇ、おデコくん?」
 顔見せてよ、と背後からそっと抱き込めば、王泥喜は下を向いたまま頑なに響也の顔を見ようとしない。
「格好いいって思ってくれたんでしょ?」
「……」
 わずかに頬を膨らませながら、こくりと小さく首肯する恋人に、響也は破顔した。
「だったらスーツも悪くないね」
「?」
 思わず漏れた一言に反応して、くるり、と顔をこちらに向けた王泥喜の目元に口唇を落とす。
「ねぇ、おデコくん」
「はい?」
「こうしてるとアレだよね、弁護士同士で悪さしてるみたいじゃない?」
 響也が目線で指し示す先には、スーツ姿の成人男性二人が怪しげな体勢を取っている様が、鏡の中に映し出されていた。
「な、何言ってんですか!」
 離してくださいってば!
 何度目とも知れない王泥喜の抗議には耳も貸さず、響也はすりすりと頬を寄せた。
「あーあ、ぼく弁護士になろうかなぁ」
 そしたら毎日こうやってられるのにね?
 響也の問いかけに、王泥喜は馬鹿なこと言わないでくださいよ、と心底呆れたような声で呟いた。
「馬鹿なことって……! 酷いなぁ、おデコくんは」
「検事じゃないあなたなんて、想像もつきませんよ。大体、弁護士になったってスーツ着るような殊勝な性格だとも思えません」
「そう、かな」
「そうだと思いますけど」
「でも魅力的じゃない? 職場が同じって」
「今だって同じようなもんでしょう……」
「そんなことないよ! 天と地ほど差があるよ!」
「わ、わかりました。わかりましたから、ちょっと声のトーン落としてください」
 声の大きさで王泥喜に注意を受けるのは腑に落ちないが、興奮しすぎたのは事実なので響也は口を噤んだ。
「あなたが弁護士じゃなくてよかったです」
「……そんなにぼくと一緒の職場は嫌なのかい」
「違いますよ」
 そう言うと、王泥喜はくるりと身体を響也のほうに向けて、背中に腕を回した。
「お、デコくん?」
「スーツで毎日そばにいられたら、俺の心臓が持ちません」
 いつもの変な格好でジャラジャラしてうるさい検事でいてください、と王泥喜は早口で告げると胸に顔を埋めた。
「……ほんと、キミってさぁ!」
「なんですか……」
「……いや? ぼくって愛されてるよね?」
 愛されてませんよ、という王泥喜の憎まれ口は、響也の口の中へと消えていく。
 恋人の口唇の感触を確かめながら、響也はふと朝から続いていた不快な気分が跡形もなく消え去っていることに気付いて、人間なんて単純なもんだと苦笑した。

2007.11.18発行:可能性の話 から再録

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